元引きこもりで今も毒親の呪いから逃げられない青年が昨今の事件の言い訳を代弁する

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「"以前私が作ったお弁当が毎日全部捨てられてたように捨てられ続けたらたまりませんから。了解頂けたら必ず返事下さい"

これ、なんのこと知ってるか?」

 

こんなメールが父親から送られてきました。さっぱり意味がわからない。また母親との過去の喧嘩を再燃させて、それの助けを僕に求めてきてるんだろうか。

 

「なんのことかわかんないけど、こんなメール転送するのはやめてくれ」

 

そう父親に送ったところ電話が来た

 

「なんで俺がこんな知らないことで怒られなくちゃならないんだ!もう疲れた!」

 

と電話口で叫び始めた

 

「そんな事は知らない。そもそもわからないことは送ってきた本人に聞け。話くらいできるだろう?」

 

「できない!もうずっと一方的に怒られっぱなしで二人の関係はそんな生易しいものじゃないんだ!」

 

仕方なく、母親に電話した

 

「お弁当捨てられたってなんのこと?親父は知らないって言ってるけど」

 

「知らないんじゃない?たぶんそんなことがあったことも知らないと思うよ」

 

「は?じゃぁ誰のこと?なんでそんなこと送ったの?」

 

「昔お父さんの兄弟のために作ったお弁当をその人に捨てられてたことがあってね、そんなこともうされたくないから」

 

「いや、親父それ知らないんでしょ?」

 

「知らないと思うよ」

 

「なんで親父が知らないことを親父に送ったの?」

 

「もうそんなことされたくないじゃない」

 

 

 

わけがわからなかった。これが数時間前に起こったできごと。

 

僕はずっとこんな風に父と母の間に入って喧嘩の緩衝材になってきた。ヒステリーで常識人の皮をかぶったキチガイの母親と、言いたいことは酒を飲んで暴れないと言えない父親のもとに育った。

 

僕は生まれてから思いつく限り、不登校、引きこもり、心身症パニック障害適応障害うつ病、と様々な精神の病気に悩まされてきた。

 

昨年からカウンセラーと治療を重ねてきて、両親の不仲に仲裁役として関わってきたことが、これらの病気を引き起こしていたことがわかった。

 

心に巣食う闇をきれいに掃除して、両親との悩みは断ち切ったはずだった。

 

でも、僕が断ち切ってたと思ってもダメだった。人から受けるストレスは、否応なしにきてしまった。

 

相手にしなければよかったんだ。でも、今後もこんなメールがずっと来るよりも、もうやめてくれ!と言いたい気持ちが勝ってしまった。反応してしまったが最後、僕は両親の喧嘩の仲裁役として、双方の言い分を聞いてなだめる緩衝材になってしまった。

 

無論、以前より僕は強くでたつもりだ。

一人ずつ電話をかけ直して、もうこんなことはやめてくれと言った。「いやでもね…」と言いかけた言葉を遮って「関係ない。あんたらの喧嘩で苦しんでるのは俺だ」と言った。

「この一年間、カウンセラーと話してたのはほとんどが両親から受けた悪影響についてだったんだぞ」と真実を告げた。

すると母親は言った。

 

「だったら連絡してこなければよかったのに」

 

僕は何だったんだろう。昔からピエロだった。怒っている両親が少しでも笑顔になればいいと、おちゃらけてみせた。

両親が笑ったときはホッとした。あぁ、これで二人は喧嘩をしなくて済むかも。

 

でもそれは違った。僕が何をやろうと二人はお互いの欠点を指摘し合った。

ある時は相手の家族の欠点を罵り合い、ある時は父が怒鳴っている最中に母が父の実家に電話を掛け、父の怒鳴り声を父の母に聞かせ続けたことがあった。

 

母と喧嘩していた僕は、母から物を投げられ、目の前で「手首を切って死んでやる!」と脅された。

僕はどれだけ怒っていても「わかったからやめてくれ」と自分の怒りを抑えて、そう言うしかなかった。

母はズル賢かった。そうやったら僕が折れるしかないことを直感でわかっていたからそうしたんだ。

 

普段は優しい表情を浮かべる父。しかしそれは、自分の言いたい事を隠しているだけだった。毎晩酒を飲んでいた。酒を飲むと人が変わり、テレビの報道に怒り、そのまま怒りの矛先が家族へと変わった。そこで毎回母とのバトルが始まる。

 

当時中学生くらいだった僕は、その喧嘩が怖くて二階の自分の部屋に逃げ込んだ。階下では、怒鳴り声、机を叩く音、ドンドンと威嚇する音、あらゆる恐怖の音が響いていた。

 

それ以来、僕は大きな音が苦手になった。

 

そして、僕は両親と顔を合わせないために昼夜逆転の生活をした。両親が寝る23〜7時が僕の行動するチャンスだった。部屋でネットをしたり、漫画を読んだり、コンビニにご飯を買いに行ったりした。

8〜17時は寝て過ごした。当然、学校は行かなかった。立派な引きこもりだった。もちろん、当時の自分はそんな言葉を気にする余裕もなかった。

 

最近、元事務次官の息子が「運動会がうるさい」と怒って、その父親から刺殺された事件があった。

僕も、昼間に寝ていたから近隣の子どもが遊ぶ音で寝れなくて、窓から怒鳴ったことがあった。

孤独だったし、常に何かにイライラしていた。子どもがバン!とボールを蹴る音は低音がよく響く破裂音で、両親が威嚇し合うドンドン!という音に似ていた。

怒鳴ったのはうるさかっただけじゃなく、怖かったからだった。

 

 

 

引きこもりにとって、自分の部屋が世界の全てだった。そこを邪魔されることは、窮地に追われたネズミと同じだった。最後には猫を噛む。もう逃げ場がなかったから、なりふり構わずキバを向くしかなかった。

 

僕はただ何かだいそれたことをできる勇気がなかっただけで、もしその時に勇気があれば、誰に対して何をしたかはわからない。大きな事件になっていたかもしれない。

それくらい、強い衝動があったのは確かに覚えている。

 

死にたい、殺したい。

 

当時は世界が狭かったので、もう終わりだと思っていた。実際、そこで終わっても良かった。でも勇気がなかった。

人を殺める妄想は何回もした。でも、それも勇気が出なかった。

 

引きこもりの人生は本人が作ったものじゃない。そして、今尚「毒親」と呼ばれる両親から苦しめられている。

親が被害者ヅラをしていていいのだろうか?不良品と呼ばれた子どもは、果たして殺されて然るべきだったんだろうか?

事務次官の子だろうがなんだろうが、お金よりも必要なものは、家族皆が心から尊敬しあうことじゃないだろうか。